クオリアとロボット
2014.01.26. 09:44
世の中には実に多くの学問がああり、それぞれの分野に造詣の深いプロフェッショナルがたくさんいます。
バイオリニストは演奏表現の限界を探り、楽器製作者はどうしたらストラディバリウスのような音が作り出せるかと日夜考えます。数学者はメルセンヌ素数の数を、物理学者は量子論と相対論のつじつまを、哲学者は人間の思考を。それぞれの研究にゴールはありません。
不思議な話ですが、音楽を聴いて「素敵だな」「切ないな」と感じる人間の感情は人それぞれです。moll(短調)とdur(長調)は明確に違えど、ではどのように寂しく感じるか、いかに明るく感じるかの「感覚」は誰とも「同じだ」と証明することができません。
なぜなら、私の目を通して見ている赤い色は、あなたの目からも本当に私と同じ赤として見えているか証明できないからです。
私が赤と感じる色は、もしかしてあなたの目では青かもしれない。各々が「これが赤だ」と教えられ生きてきたから「赤」なのであって、その赤の波長の色を本当に人間全員が「共通した赤色」として受け取っているかは確かめる術がないのです。
このような、人によって感じることの違いを哲学(物理学)の世界では「クオリア」と呼びます。
楽しい音楽を聴いて「楽しい」と感じる反応は、脳神経の電流の流れによって体験されます。
人間の知覚がニューロン(神経細胞)を伝わる電流反応であるならば、その電流を研究すれば人の感情を持ったロボットが作れるはずです。
でも、人間固有のデータをパターン化して電気信号にプログラミングしても、自分と瓜二つの感情を持つロボットを作ることはできません。
そのロボットにはクオリアが存在しないから、永遠に「感情を持たないロボット」のままなのです。
物質は素粒子によって構成されます。
粒子の位置や運動の大きさで様々な元素が決定され、それらが結合して物体や生体になります。
しかしクオリアがどのようにしてなぜそこに存在するかは全く分かっていません。
演奏とは、言わばその人のクオリアそのものです。
技術が完璧な世界トップクラスのバイオリニストを10人集めても、それぞれの演奏表現は異なります。
クオリアが違うからです。
このパートはこう表現したい、ここはこんな情緒をアピールしたい。演奏の上手な人のクオリアは楽器を通じて飛び出し、音波で空間を振動させ私たちの耳に訴えかけるのです。
その答えは明確で、その人のクオリアが表現できていないからにほかなりません。
ほとんどの人にとって、その人のクオリアを表現するには技術的に未成熟なのです。
一生懸命音程をとったり間違えないように弾くのが精いっぱいで、楽器と技術を通じて己のクオリアを表現する余裕がないのです。高価な楽器や良い弓だけでは感動する音は作れないのです。
「うまい人の演奏」とは、技術レベルの完成度の高さはもちろん、舞台上での緊張のコントロール、自己感情の成熟度にも大きく依存します。また、感動する物語を聞いても涙が出ない人間に、人の心を打つ演奏はできないのです。
すなわち相当する訓練と経験を経た末の「クオリアの表現」と言えるでしょう。
ところで私は自分のクオリアを楽器を通じて解き放つことができているでしょうか。音の振動に乗せてみなさんに届けることができているでしょうか。
・・・で、できていません。笑
その理由は、ロボット的なレベルである技術の習得ができていないからです。
まず自分がロボット的な技術を習得しなければ、それよりも高いレベルに位置する「私のクオリアの表現」ができるはずがないのです。
音階とエチュードとは、言い換えれば「ロボットレベルに追い付くための最短手段である」と言えます。これらをやらずして、「あぁ素敵だなぁ」と人の心に響く演奏はできないのです。
曲が上手い人は音階も上手いです。音階を上手く弾けずして、曲を弾きこなせるはずがないのです。
「音階はできないけど私は弾きこなしている!」と思う方もいらっしゃるかも知れません。でもそれが本当に素晴らしいかどうかは、本人が言えることではありません。
自分が弾いていて気持ちの良い演奏とは、そもそも自己完結そのものです。それがクオリア表現ができているからなのか、単なる自己満足なのか、それを確かめる術はありません。そもそもあなたのクオリアが他の大勢を感動させるクオリアなのか全くわからないのです。
だから音楽の演奏は難しい。
さて、みなさんはこれから何を練習したいですか。
私はとにかく、今取り組んでいるマーラーを美しく弾きたいだけです。
言い換えれば、音階をやりなさい、ということなのでしょうね。
(このコラムを書いてかなり後悔しています)